ますい’s diary

子育てと趣味(自転車、酒、書評)など、書けたらいいな。

ボードゲームにおいて、ゲームの楽しさ、目的とは何か

 なぜボードゲームをするのか、ボードゲームの何が楽しいのか、ゲームの目的とは何かを考えてみたい。

 ボードゲームとは余暇活動の娯楽であるため、少なくとも楽しいこと、善いことであることを期待されている。それでは、ゲームをプレイする楽しさとは何であろうか。ゲームに勝利すれば、優越感・自己肯定感を得ることができる。あるいは勝てずとも、友人や家族と同じゲームをプレイすること自体が充分に楽しいことが多いだろう。

 だが時として、ボードゲームをプレイしていてもつまらないことがある。それはなぜか。一つはルールの誤認やゲーム自体のシステムの破綻ににより、プレイが成り立たなかったことが挙げられるだろう。ゲームができなかったのであれば、つまらないのは致し方ない。ただ今回問題にしたいのは、同じゲームをプレイしていても、それぞれのプレイヤーがゲームへの楽しみ方、ゲームの目的が異なっているがゆえ、ゲームに歪みが生じつまらなくなってしまうパターンである。

 ゲームへの楽しみ方、ゲームの目的とはどのようなものかを考えるにあたり、カイヨワのゲーム分類を援用したい。 カイヨワは遊び(プレイ)を以下のように分類した。
  競争(アゴン)ex.かけっこ
  偶然(アレア)ex.ダイスゲーム
  模倣(ミミクリ)ex.ごっこ遊び 
  眩暈(イリンクス)ex.ぐるぐる・ジェットコースター

 カイヨワはゲームの分類として、上記4分類を考察したが、この4部類を楽しさの指標として読み替えるとすると、プレイやースタイルの分類、プレイヤーがゲームの何を楽しむかの指標にもなりなると考える。つまり、アゴンが好きなプレーヤーは何よりもトップになることを考えて行動するし、アレアが好きなプレイヤーは運にまかせたプレイに走りがちである。ミミクリが好きであれば、ロールプレイ志向が強くなる。イリンクスは少し考察しにくいが、重ゲーのルール量に押しつぶされる瞬間の恍惚感が近いかな?むりやりボードゲームに当てはめると。

 もちろん、一人のプレイヤーがそれぞれの嗜好を複合的にもっているし、プレイするゲームにおいても変動するだろう。具体的には、私の嗜好的にはアゴン6、アレア2、ミミクリ2がベースであるが、2人ゲームをプレイするときはほぼアゴン10であるし、ロールプレイが楽しいボードゲームのときにはミミクリ要素が高くなる。ただし、同じゲームをプレイしているときに、一人がアゴン10でプレイしており、他方でミミクリ10でプレイされるとゲームが破綻することがある。アゴンからミミクリ見れば勝利を目指していないプレイをされ興ざめであるし、ミミクリからアゴンを見れば勝敗だけにこだわるつまらないプレイとうつるだろう。
 このように、ボードゲームにおいては、同じゲームをプレイしても、同じ楽しみ方、目的をもっているわけではないことに注意しなければならない。このことに自覚的になり、同じ嗜好のプレイヤーが集まることで、つまらないプレイになることをある程度は防げるのではないかと思う。これは、よく言われる「ガチ勢」と「パーティー勢」との対立でもあるが、ガチ・パーティーの中にもそれぞれ嗜好が分かれるので、評価軸はもう少し細かく持ったほうがよいと思う(※カイヨワの4分類もあまり適切ではないと思う)。ただ、最終的には、その場のプレイヤーの嗜好に合わせて、自分のプレイを変えることが、より善いボードゲームプレイヤーであろうが。

 それらのことに自覚的になるために、目的が複数あることが明確なゲームをプレイして実体験とするのがよいと思う。まず思い浮かぶゲームは、スカル(SKULL&ROSE)である。自分が勝つことが目的なのか、相手を倒すことが目的なのか。もちろん、相手を次々に倒して行けば、自分の勝利につながりはするが、自分の勝利を捨ててまで相手を倒すのが好きなプレイヤーも一定いる。スカルはその目的によってプレイが明確に変わり、わかりやすいので、プレイスタイルに自覚的になること、他のプレイヤーのスタイルを測るのに適している。

 また、京都議定書(KYOTO)はボードゲームとしては破綻気味であり、ゲームを成り立たせることを努力しながらプレイしないといけない。そのため、自分の勝利を目指すのではなく、RPG的に楽しまざるを得ない。ボードゲームは勝つことが目的ではないよね、と教えてくれる貴重なゲーム。(※最初からミミクリを前提としているゲーム(ワンス・アポン・ア・タイムなど)はたくさんあるが、KYOTOはアゴンの外装をまっとているが、破綻しているため、ミミクリをせざるを得ない。プレイ中に、その自覚がしやすいゲーム。)

 ゲームの楽しさ・目的の分類は、もう少し有益な分類方法があるかと思うので、改めて考えてみたい。

 また他方、プレイヤーが楽しさ・目的を自覚しながらも、自らのプレイスタイルに縛られてしまう現象も考えたい。たとえば、将棋の居飛車or振り飛車党のように、勝つことへの最善でなしに、戦略(戦術)をきまってしまっていることがある。プレイスタイルに生き方を投影するような要素があることを今後考察したい。